インサイド・マン (米:スパイク・リー 監督)
白昼、マンハッタンの信託銀行が銀行強盗に襲われる。しかしすぐに警官隊が駆けつけた。強盗グループは銀行員や店内にいた客50人を人質に取り行内に立て篭もる。果たして警察は人質を救出できるのか。それとも強盗一味はまんまと金を奪って逃げる事が出来るのか…。
うーむ、こういうシチュエーションは凄く面白そうである。それに予告編やチラシ等にもあるのでここで書いてもいいと思うが、犯人たちは人質全員に自分たちと同じ扮装をさせるのである。これは何か知能的な匂いを感じさせる。もしかしたら犯人たちはあっと驚く頭脳的作戦を立てているのかも知れない。先の展開が凄く楽しみになるではないか。
さて、ここで前フリを少々・・・
銀行強盗ものというのは、映画においても一つのジャンルとして数多くの作品が作られている。
一番面白かったのは、イタリア映画「黄金の七人」(65・マルコ・ビカリオ監督)というシャレた快作。これは強盗と言うより、地下に穴を掘って誰も気付かないうちに金塊を盗み出す、私が勝手に“穴掘り泥棒”ものと呼ぶパターンである。
日本では一昨年、犬童一心監督「死に花」というのがあった。銀行ではない場合も含めるともっと昔からあり、最近リメイクされたコーエン兄弟監督の「レディ・キラー」(04)はカジノの金庫を狙う(オリジナル版の邦題は「マダムと泥棒」(55))。いずれも、どちらかと言えば皮肉たっぷりのコメディで、気軽に楽しめる軽いタッチの作品が多い。
本作のように、正面から銀行を襲うものは、シリアスなタッチのものが多い。代表的なものとしては、シドニー・ルメット監督の「狼たちの午後」がある(本作でもチラッと題名が登場する)。これも日本では本広克行監督の「スペース・トラベラーズ」('00)がある。コミカルなタッチで始まるが、結末は悲惨というちょっと中途半端な作品。
大まかに括ると、前者は知恵を絞ったゲーム的要素を持ち、後者はあまり頭を使わず、悲惨な結末が用意されているタイプである。
そこで本作だが、発端は後者のタイプなのに、犯人たちはかなり知能犯で、ゲーム的要素も持っている。
これは新しい、第三のタイプの銀行強盗もの…と言えるのかも知れない。
冒頭の、主犯の男ダルトン(クライブ・オーウェン)が暗く狭い場所で「私は銀行を襲った」…と語り始めるシーンから、すでにトリックが仕掛けられている。じっくり背後の景色も見ておくこと。その他にもあちこちに仕掛けがある。
観た人の中には、犯人の目的が分からないとか、話が分かり難いとか批判的な声も多いが、これはあえて、観客にも自分で考えてもらい、謎を解いて欲しいという作者の意向があるのだと思う。その為のヒントはあちこちに張り巡らされているはずである。
そういう風に、謎を推理する事によって、もっと映画を楽しむことができるのである。
私は結構楽しませてもらいましたよ。教えてもいいのですが、そうすると貴方の考える楽しみを奪うことになるので敢えて言いません(笑)。頭を絞って考えてくださいね。
でも、ちょっとだけ(笑)。―― ここから重要なネタバレがありますので、映画をご覧になった方だけ、例によってドラッグして反転させてください。
私は、貸金庫室の責任者の男が共犯だと思う。貸金庫は本来顧客以外、絶対覗いてはいけないものだが、例えば警察の捜査依頼があれば開けられるように、銀行の責任者は開ける事が出来るのである。
多分その銀行マンは、問題の貸金庫を開けたのだろう。そして、会長(クリストファー・プラマー)の秘密を知った。だが人には言えない。公表すれば自分が疑われるからである。しかしこんな悪人を許しておく事は出来ない。
そこで、秘密を打ち明けられる誰かに相談した。そしてダルトンに話が伝わった。彼は恐らく誰も傷つけずに泥棒をするプロなのだろう(ルパン三世のようなものかな(笑))。義憤にかられたダルトンは周到な計画を立てた。一人も傷つけずに秘密の書類を盗む。―ただしダイヤはいただく。…実際、終わってみれば誰も死なないし、大金庫の金も無事。
そこでおかしな事に気付くだろう。一人の銀行員が、携帯を隠したという事で、擦りガラスの向こうで手ひどく暴力を振るわれるシーンを…。
もうお分かりだろう。彼が共犯者なのである。このシーンはすべて打ち合わせ済みの芝居なのである。あえて擦りガラスの向こうの部屋に連れて行ったのはその為である(やたらオーバーな悲鳴をあげていた(笑))。
この芝居を行ったのは、いろんな意味がある。まず、犯人は凶暴で、逆らうと危害が及ぶという事を人質たちに認識させること(誰も傷つけずに認識させるには必要な手)。
そして、カンのいい観客に、銀行員に共犯者がいる事を悟らせる為でもある。
タイトルの“インサイド・マン”とは、まさに銀行内部にいる、この男のことなのである。
そのヒントは、人質の一人を、みせしめに銃殺処刑するシーンにある。これが後で血糊を使った芝居である事が分かるのだが、という事は、あの血だらけになった銀行員(共犯者)の血もニセだった…という事になる。頭にスッポリ袋をかぶせられていた、あの処刑される人質は、多分この銀行員が演じたのだろう(他にこの芝居を演じられる人質はいない!)。
こう考えれば、すべて辻褄が合う。この映画のポイントはここにあり、ストックルームに1週間もバレずにダルトンが隠れていた…というよく考えればおかしな点も、実はどうでも良い、と思えるのである。
いかがですかな?
まあ、映画はいろいろな楽しみ方が出来るものである。あれやこれやと(後からでもいい)考え、推理し、自分なりの答を見つけ出すのはとても楽しいことである(ましてや誰も気付かない答を見つけた時などは(笑))。
そういう事を考えさせてくれる映画と出会うのも、また無上の楽しみなのである。
スパイク・リー監督が新境地を開いた…という点でも興味深い。演出力は「マルコムX」で実証済みの彼が、今後もこうしたエンタティンメント分野で活躍してくれる事を期待したい。 ()