花よりもなほ   (松竹:是枝 裕和 監督)


 「誰も知らない」で内外から高く評価された是枝監督の新作。

今回は一転、時代劇コメディである。まあ、かつて「ワンダフルライフ」と言うファンタジーものも手掛けており、決して重苦しい作品ばかりを作っているわけではない。
 ジャンルを縦横に行き来する、是枝監督の柔軟な姿勢は好ましい。

テーマはズバリ、仇討ちの是非…である。

 2種類の仇討ちが登場する。主人公、青木宗左衛門は、父の仇討ちの為、江戸へ出てきて長屋で暮しながら仇を探している。しかし腕はからっきしダメ。だから仇を見つけても見守るばかりでなかなか仇討ちに踏み切れない。

 もう1組は、同じ長屋に住む赤穂の浪人たちによる、吉良上野介宅への討ち入り…有名な忠臣蔵の話である。

 赤穂浪人たちは、一国も早く討ち入りしたいのに、家老大石内蔵助が決断しないものだからジリジリしている。

 彼らは、“赤穂浪士”という名の組織の一員だから、組織を乱す行動は取れないのである。(その間、江戸町民からは“腰抜け”と嘲られている)

 対して、宗左衛門の方は一人だから自由気まま。そして本心は…どうやらあまり仇討ちには乗り気でないようである。出来れば仇討ちせずに郷里に帰りたい…。

 その結果が、ラストの何ともスッとぼけたオチに繋がるのである。

(以下ややネタバレになります。未見の方はご注意)

 

 

 赤穂浪士の方は、ようやく大石の決断が降りて吉良邸討ち入りに向かう。

 しかしその途中、宗左衛門と仲の良かった寺坂吉右衛門は、突然隊列から外れ、帰って来てしまう。

 彼も宗左衛門に感化され(?)、仇討ちなんて無意味だ…と思ったのかも知れない(かどうかは作者はうまくボカしているが)。

 吉右衛門が討ち入り後に姿をくらましたのは事実で、その理由は内蔵助に頼まれ、赤穂へ討ち入りの仔細を伝える為だとか(これが一番有力)、いろいろ説があるが、真相は不明である。

 映画は、その史実を元に、“真実なんて、案外こんなものかも知れない”…という皮肉なオチをつけている。

 そうした皮肉を交えて、是枝監督は、浪士たちの武士道精神と組織に縛られた窮屈さと、長屋の住人たちの、金はないけど何にも縛られず自由で屈託のない生活ぶりを対比させて、サムライの意地仇討ちという復讐装置のバカバカしさ……を徹底的にコケにし、笑い飛ばしているのである。

とは言え、是枝監督の生真面目な性格が災いしてか、いま一つハジけたコメディの快作にまでは至っていない。ウェルメイドな出来ではあるが、どこか物足りない。それが残念である。

 

 さて、長屋もの時代劇…というジャンルは、昔は良く作られていたが、高度成長期に入ってからはバッタリ作られなくなった。時代劇は金がかかるうえに、“貧乏”が次第に現実味を失って来たからだろう。

 そうした作品をいくつかピックアップしておこう。
 ちなみに、ほとんどは落語をネタとしている。

 「落語長屋」シリーズというのがあった。エノケンこと榎本健一主演で、「落語長屋は花ざかり」(54)を第1作として数本作られた。柳家金語楼、森川信など当時のコメディアンが多数出演していた。

 マキノ雅弘監督の「江戸っ子繁昌記」(61)は、落語の「芝浜」と、怪談番町皿屋敷(お菊と播磨)をミックスした珍品。中村錦之助が長屋の魚屋と播磨の2役を演じた。

 落語・漫才が大ブームとなった66年頃には、落語家や漫談家を大挙主演させた「落語野郎」シリーズというのがあったが、これはつまらなかった。大体、落語家は喋りは旨くても、演技はダメである。しょうもないギャグだけではもたない(山のアナアナ…―古いな(笑)−は一世を風靡したが今は寒いだけである(笑))。

 そんな中で私が大好きなのが、山田洋次監督の「運が良けりゃ」(66)である。

 自身も落語の台本を書いている大の落語ファンである山田監督が、落語の「らくだの馬さん」、「寝床」、「黄金餅」などをアレンジして、庶民のバイタリティを絶妙の間で描いている。凄くリアルな長屋のセットとか、掃溜めに鶴の美人(倍賞千恵子)とか、肥汲み屋とか、本作に共通するネタもある。

 是枝監督は、こうした落語ネタをかなり調べた形跡が窺える。国村隼演じる大家の伊勢勘などは落語に登場する大家そのまんまである(ちなみに、落語に登場する大家の名前は、大体は“伊勢屋宗右衛門”である)。ニセの死体で代官所をだますくだりも落語っぽい。

 なお、長屋と仇討ちの両方が出て来るのは、これもマキノ雅弘(稲垣浩と共同)監督の「決闘高田の馬場」がある。主人公は後に赤穂浪士となる中山安兵衛。
 本作と縁が深い映画と言えよう。        (