単騎、千里を走る。    (東宝:チャン・イーモウ/降旗 康男 監督)

 かねてから、高倉健主演の映画を撮りたいと望んでいた中国の巨匠、チャン・イーモウの永年の夢がかなった作品(健サンは中国で凄く人気があるらしい)。
 息子と仲違いし、ずっと疎遠だった父・高田(高倉健)が、息子がガンで余命いくばくもない事を知り、息子が以前中国で知り合った舞踊芸人と、次に訪れる時に撮ると約束していた仮面劇『単騎、千里を走る』を息子の代りに撮影する為に中国へ旅立つ…というのが物語の発端。息子は、わざわざ病院まで来た父にも会おうとしない。それほどまでに深い確執の原因は何か、映画の中では語られないが、健サンのこれまでに演じて来た役柄(寡黙で、仕事一途で家庭を省みて来なかった男というイメージ)から、彼の背中を見て推察せよという事なのだろう。こういう役柄は、従って健サン以外には演じられる役者はいないだろう。
 中国に渡り、目当ての芸人・李加民を探すと、彼は刑務所に服役中だという。現地のガイドは他の芸人でも同じだと言うが、高田は頑として李にこだわる。ここでも、寡黙だがこうと決めたら梃子でも動かない健サンのキャラクターが生かされている(むしろこうした健サンのイメージに合わせてストーリーを考案したように思える)。こうして、仮面劇をビデオに撮る…という目的を達する為に、高田は刑務所へ、さらに息子と会わないと踊れないと言う李加民の為に、その息子を探してさらに中国奥地へと向かうこととなり、そのプロセスで高田と、ガイドや現地の中国人たち、李の息子・ヤンヤンとの心の交流が美しい中国奥地の風景をバックに描かれて行く。
 ヤンヤンも、父には会いたくないと言い、逃げたヤンヤンを追って道に迷った高田とヤンヤンはいつしか心を通わせて行く。言葉が通じなくても気持ちは通い合う。それは、高田と息子との確執や、今も続く日中国家間の過去のわだかまり−等を解消する一つの道なのではないか。―それがこの映画のテーマなのだと思う。思えば、健サンが数多く演じて来た任侠映画の中でも、言葉はなくても見詰め合うだけで相手の心意気を理解し、無言で共に殴り込みの死地に向かう−というシーンを幾度見て来たことか(任侠演歌の「兄弟仁義」の歌詞に「俺の目を見ろ、なんにも言うな」というくだりがある)。チャン・イーモウ監督は、そうした健サンの役柄の重みを知ったうえでこの物語を作ったのだとしたら大したものである。
 現地の中国人出演者たちは、全員演技経験のない素人だそうで、これはチャン監督の傑作「あの子を探して」と同じ手法である。その素朴さ、親しみ易さがいい雰囲気を出している。ストーリーはよく考えたら、やや無理はあるのだが、この映画の見どころは物語よりも、雄大な大自然に包まれて生活する中国の人々のおおらかな生き方(日本人残留孤児を育ててくれたように、村人が孤児のヤンヤンを育てて来た事にも象徴される)や、人生の黄昏どきに差し掛かってもなお子供への思いの為に行動する寡黙な父親の姿から、何かを学び取って欲しいという点にあると私は思う。−それにしても、冒頭とラストで、鉛色の海に向かって立つ健サン、雄大な中国の山々をバックに立つ健サンは実に絵になっている。これはチャン・イーモウ監督が、敬愛の意を込めて作った健サンと、健サンファンの為の素敵なプレゼントなのである。        (