この胸いっぱいの愛を    (東宝:塩田 明彦 監督)

 「黄泉がえり」というスマッシュ・ヒットを放った原作・梶尾真治、監督・塩田明彦のコンビが再び組んだファンタジー映画。
 出張で故郷・門司を訪れた鈴谷比呂志(伊藤英明)は、実家の旅館の前で20年前の自分と出会い、いつの間にか20年前の時代にタイムスリップしていたことを知る。実は比呂志を含めて4人の男女がこの時代に飛ばされていた。そして4人とも同じ飛行機に搭乗していた事が分かる。いったい何故そんなことになったのか。…と、お話はややミステリー・タッチ(と言うか「トヮイライト・ゾーン」的パターン)でスタートする。未見の方は、これ以上の予備知識は仕入れないで観ることをお奨めする。
 原作は梶尾真治の「クロノス・ジョウンターの伝説」の中の1エピソード。これははっきり言ってタイムマシンものSFなのだが、映画の方はSFと言うよりはファンタジー・ラヴ・ストーリーになっており、ホロリとするエピソードもあってまずまず楽しめる。タイムスリップものに付きものの矛盾や突っ込みどころもあるのだが、おとぎ話に似たファンタジーとして観ればいいのではないか。出演者の中では、ヒロインを演じたミムラが好演。バイオリン演奏シーンが特にいい。あと、ごく短い出番だが、おばあさん役の倍賞千恵子のエピソードが泣かせる。ただし、映画全体としては、泣かせどころの演出も含めて前作「黄泉がえり」よりは落ちる。ラストシーンもなんとなく不得要領。
 ―で、実は原作者自身による、この映画のノベライゼーション本が出ているのだが、(普通は映画のストーリーそのままが常識だが)なんとラストがガラッと異なっている。人によって好みは違うだろうが、ノベライズの方が爽やかで後味のいい内容になっており、私はこっちの方が好きである。先にノベライズ本を読んでから映画を観ると、ガッカリするかも知れないので、本を読むなら映画を観てから後にすることをお勧めする(しかし、なんでノベライズ通りに映画化しなかったのだろう)。なお、映画を観られた方は、ここをクリックしてください。さらに内容に突っ込んだコーナーがあります。     


原作小説 こちらはノベライズ版

















以下、映画の内容に触れています。未見の方は映画をご覧になってから読んでください。

 物語の後半になって、過去に飛んだこの4人が、実は飛行機事故で亡くなった、いわゆる幽霊であることが明らかになる。そして彼らは、この世に残した未練を抱えており、その未練を払拭した時に、彼らは成仏する事が出来るのである。―まあつまりは「黄泉がえり」とよく似たパターンと言うことになる。映画は後半、彼らがその課題をどう解決して行ったかを丁寧に描いている。どれも泣かせ所なのだが、塩田演出は適度に情緒過多を避けており好感が持てる。

 中心となるのは、元の時代では難病で亡くなっている、年上の憧れの女性・和美(ミムラ)に寄せる比呂志の愛であり、生きる勇気を与えようとする奮闘振りである。そのことがこの時代にタイムスリップした比呂志の役割であり、成仏する課題でもある訳である。ラストではその思いが通じ、和美は手術を受けて懸命に生きて行く道を選ぶ。その時、比呂志は彼女の前から消えてしまうことになるのである。このラストはちょっと「ゴースト/ニューヨークの幻」を思わせるのだが、その割りに比呂志が消えるシーンがないのはやや演出ミスではないだろうか。もっと泣ける感動シーンのはずだが…。

 映画のラストでは、比呂志は現代において飛行機事故で亡くなっており、生き続けた和美が、あのとき現われた30歳の男がタイムスリップして来た比呂志であったことを知る…という結末なのだが、映画ファンの間からは、「未来で事故に遭うのが分かっているのだから、なんで子供のヒロシに、飛行機に乗らないようメッセージを残さなかったのか」という疑問が出て来ている。和美が生き残るように歴史を変えてしまったのなら、比呂志が事故に遭わないよう歴史を変えてもいいのでは…という事である。

 実は、ノベライズではその通りに、比呂志は子供のヒロシに「一生飛行機に乗るな」とメッセージを残しており、おかげで成人になった比呂志は事故に遭わずに和美と再会する…というハッピーエンドになっている。
 それはそれでいいのだが、ここでまたタイムパラドックスが生じる。事故に遭わなければ比呂志は20年前にタイムスリップ出来ないわけで、従って和美に生きる勇気を与えることも出来なくなるという矛盾が発生する。「ターミネーター」シリーズもしかり、歴史を変えてハッピーエンドにすると過去に飛ぶきっかけを失ってしまい、過去は変わらないという循環パラドックスに陥ってしまうのである。映画の結末では、比呂志はやはり事故で亡くなっている…という、ノベライズとは異なる展開にしたのは、このパラドックスを解決する為だったのかも知れない。 ――というのは、ちょっと考え過ぎ?