ミリオンダラー・ベイビー (ワーナー:クリント・イーストウッド 監督)
クリント・イーストウッド監督・主演で、アカデミー賞作品賞他4部門に輝いた秀作。
最初予告編を観た限りでは、これは貧乏だった女性ボクサーが、苦難の末にチャンピオンになるまでのシンデレラ・ストーリーだとばかり思っていた。―それなら、エンタティンメントとしては面白いが、あのイーストウッドが、そんな単純な娯楽映画を作るのかな…とちょっと疑問には思った。
観てみてビックリした。やはりイーストウッドはただ者ではない。なるほど、これはやられた。そんな物語だったとは想像がつかなかった。さすがは「許されざる者」、「ミスティック・リバー」のイーストウッドである。
どんな映画であるかは、これ以上語らない方がいい。とにかく素晴らしい傑作である。できるだけ余計な情報を入れずに見るべし。映画を観た方だけ、ここをクリックしてください。
それにしても、イーストウッドは不思議な人である。本来ならマネーメイキング・スターとして、単純明快ななアクション映画に出ているだけで稼げるのに、自分で監督をするようになってからは自分のプロダクションで、異色の、ほとんど儲からないような作品を積極的にプロデュース・演出している。監督3作目にして、早くも「愛のそよ風」(73)なる、初老の男と少女とのピュアなラブストーリーを演出し、見事にコケている(わが国では劇場未公開)。その後も、売れないカントリー歌手の死に様を描いた「センチメンタル・アドベンチャー」(82)だとか、チャーリー・パーカーの生涯を描いた「バード」(88)だとか、映画「アフリカの女王」製作の裏話を描いた「ホワイトハンター・ブラックハート」(90)だとか、社会派ミステリー「真夜中のサバナ」(97)だとか、ほとんど客の入らない地味な映画を多く監督している(わが国ではそれらはことごとく2番館とかミニシアターでひっそり公開された)。
本作も、大手のワーナーが出資を渋り、別のプロダクション(レイクショア)が資金提供してやっと製作に漕ぎ着けた。それほど、企画としては地味な作品である。それが出来がいいせいもあって、最近のイーストウッド作品では久しぶりのヒットとなったのはまことに喜ばしい。
そして、本作品の底流に流れるのは、以上に挙げた“儲からない作品”に共通するテーマ―何かに突き動かされるように、ひたむきに生き急ぎ、そして死に急ぐ人たちの生きざま(「センチメンタル−」「バード」)であったり、目的の為には手段を選ばない、ファナティックな男の人生(「ホワイトハンター−」)であったりするのである。そうしたイーストウッド作品をずっと観てきておれば、本作の素晴らしさはより理解できるだろう。これ以上は書かない。劇場で確かめていただきたい。
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前半は、プア・ホワイトの貧しい環境から必死に這い上がろうとするマギー(ヒラリー・スワンク)が、めきめき腕を上げ、連戦連勝で、遂に世界タイトル戦に挑戦するまでを快調なテンポで描く。そんなにいきなり強くなれるのか…という疑問も湧くが、そんな点は映画を観ておればどうでもいい事だと気付く。そのチャンピオン戦でマギーは、相手の反則が元で首の骨を折り、半身不随になってしまう。映画はここから、ガラッとペースを変えて、死なせて欲しいと望むマギーと、老トレーナー、フランキー(イーストウッド)との、心の葛藤、ストイックな愛、そして最近のイーストウッド映画に共通する“贖罪”をめぐる、重厚な人間ドラマが織り成されて行くのである。フランキーが、自分の娘に対して送り続け、そして送り返されて来る手紙のエピソードにも、娘に対してフランキーが何らかの罪の意識を感じている事が伺えるが、その理由を映画はあえて語らない。またジムで働くスクラップ(モーガン・フリーマン)にもフランキーは、彼の片目を失わせたという罪を感じている。彼は自分では“許されざる者”と感じているのだろう。しかしスクラップも、そしてマギーもフランキーを心から許しているに違いない。“許す”とはどういう事なのだろうか。フランキーの娘が手紙を拒否し続けているのは、むしろフランキーに会いに来て欲しい―と望んでいるからではないだろうか。フランキーがマギーに寄せるせつない思いが、娘に対する思いとも重なり、この映画は、人間が生まれながらに背負う、業―罪の意識の深さ―それを究極で許すのは、人間の深い愛なのではないかと訴えているのである(それらをもっと理解する為には、フランキーが信ずるカトリック教義をより深く知るべきかも知れないが)。“尊厳死”というありふれたテーマではこの映画の真価は図れない。そこをさらに突き抜けた、もっと奥深い、人間の運命、心の絆そのものに迫った問題作なのである。
イーストウッド自身の作曲によるシンプルなギター・メロディも忘れ難い。何度も観たくなる、本当の傑作である。