鉄人28号   (松竹:富樫 森 監督)

 「鉄人28号」と言えば、昭和30年代初期、一世を風靡した人気ロボット・マンガである(原作:横山光輝)。私も当時夢中になった。昭和35年頃にはテレビで実写版が放映された。ただし鉄人は中に人間が入ったブサイクなデザインで、サイズも人間と同じ。まあ当時のテレビ・ドラマは超低予算で仕方ない面もあるが、余りの情けなさに泣けましたよ(笑)。
 昭和38年にはテレビ・アニメが放映され、これは当時のアニメ・ブームに乗って大ヒット、「ビルの街にガオー…」の主題歌も人気を呼んだ。中高年世代にとっては今も懐かしいキャラクターである。
 その「鉄人」が実写で映画化された。当時と違って今はCGでどんな映像でも作れる。多分オールド・ファンはかなり期待したことだろう。ところが、公開前からかなりの悪評がネットを中心に広まり、おまけに「デビルマン」、「CASSHERN」とヒット・アニメの実写版がことごとく惨敗。私も少々危惧したのであるが…。
 なるほど、テレビ・アニメのカッコ良さを期待すると、ちょっとがっかりする出来ではある。評判が悪いのも分かる。正太郎少年は原作の少年探偵としての凛々しさはなく、弱々しくて常に泣き顔、オロオロしてるだけである。鉄人の動きもギクシャク、まるでトラクターがアームを振り回すようなトロい動きである。表面の質感も、セルロイド人形のようにツルツル、重量感がない。
 では、この映画は「デビルマン」、「CASSHERN」なみのトホホな駄作なのだろうか。―― 実は、ちょっと視点を変えると、これはそれらの作品とは異なり、なかなか楽しめる作品になっているのである。

 まず、ポスターが異色である。画面の右上に、いじめっ子らしい少年が二人。手前中央やや左寄りに、一人の少年が対峙し、その少年に鉄人のシルエットがかぶさっている。そこにキャッチコピー「最後に勇気をふりしぼったのは、いつですか?」。―ロボット・アクション映画とはとても思えない、シンプルなポスターである。そして監督が、「非・バランス」や、少年が勇気をふりしぼって少女に会いに行く秀作ドラマ「ごめん」を監督した富樫森である。…この2点から判断すると、富樫監督の狙いは、ありきたりのロボット・アクションを作るのではなく、“気が弱く、勇気を持つ事を忘れていた少年が、勇気をふりしぼり、立ち上がるまでのドラマ”を描く事にあるのだと分かる。
 正太郎(池松壮亮)は母と二人暮らし、気が弱く、どこにでもいる普通の少年である。その彼が、父の残した鉄人の操縦者として、東京を守る使命を与えられ、失敗し、落ち込み、しかし多くの協力者に支えられ、勇気をふりしぼってもう一度立ち上がり、遂に勝利するまでの物語である。―これぞまさしく正しい娯楽映画のパターンそのままではないか。
 もう一つ、鉄人と言っても、ラジコンで操縦される、自分自身は知能を持たない機械に過ぎない。だったら動きは当然ギクシャクするし、操縦を誤ったらコケるのも当たり前である(映画「ロボコン」でも採り上げられた、ロボット・コンテスト−を思い起こすべし)。あの操縦機も、よく見たら複雑な動きはコントロールできそうもない。リアリズムにこだわったら、ああいう動きになるのもむしろ当然である。アクション映画にしようと思えば、いくらでも出来るだけの技術があることは、冒頭のブラック・オックスの暴れっぷりを見ても分かる(オックスが東京の芝周辺で暴れ、東京タワーを破壊するシークェンスの特撮は予想以上によく出来ている)。この映画は、ありきたりのアクション映画でなく、少年の勇気と自立を描くドラマという、明確なポリシーを持っており、その視点から鑑賞すべきなのである。鉄人の質感は、レトロな懐かしい味わいで統一する為(オックスと鉄人が対決する絵柄のポスターは、まさにレトロ感に満ちている)のスタッフの確信犯的な作戦であると思える。少なくとも、「デビルマン」や「CASSHERN」なんかよりはずっと分かり易い、子供たちにも十分楽しめるドラマである事は間違いない。
 ――とまあ、かなり擁護したのは、富樫監督のファンである故で、狙いは私にはよく理解できたが、しかしこの映画をかつてのテレビ・アニメと同じテイストであると思って劇場にやって来た、多くのファンが失望したであろう事も想像できる。観客を呼ぶ為に、ロボット・アクションとして売った宣伝を非難する事もできない。誰が悪いとも言えないのである。富樫森を監督に起用した時点で、こうなる事は予想できたかも知れない。つくづく通俗娯楽映画を撮れる監督、並びにプロデューサーの人材不足を痛感する。これから映画を観る方は、前記のポイントを押さえた上での鑑賞をお奨めする。なおラストの展開は、ブラッド・バード監督の秀作アニメ「アイアン・ジャイアント」へのオマージュであり、ここもニヤリとさせられる。