ハウルの動く城 (東宝:宮崎 駿 監督)
いまや日本最大のヒットメイカー、宮崎駿の3年ぶりの新作。「魔女の宅急便」以来、15年ぶりの他人の原作ものでもある。興行的には相変わらず強い所を見せている。今回も興収200億円超は堅いだろう。
さて、映画の方だが、原作ものとは言いながらも、やはり宮崎さんらしい映画になっている。ただ、掲示板等を見ると、これまでの宮崎作品に比べて、否定的な意見が多いようだ(もっとも、前2作も最初は否定的な声があったのだが、次第に少なくなって行った)。これは、前2作にも増して、いろいろ分かりにくい部分が多いせいだろう。しかし、これもいろんな謎を残す事によって、みんなで考えて欲しい…という宮崎さん流の狙いがあると思う。以下その点について、私なりの解釈を述べることとする。
(1)ソフィにかけられた呪いは、いつ解けたのか
宮崎作品をずっと眺めてみると、“呪い”がよく登場する事に気付くだろう。「紅の豚」では、主人公ポルコは、戦争に嫌気がさして自身に呪いをかけ、豚になっている。「もののけ姫」では主人公アシタカは、タタリ神の呪いで腕に黒い痣が出来てしまう。そして「千と千尋の神隠し」では、両親が呪いによって豚に変えられてしまい、千尋はその呪いを解くために働くこととなる。この3作は、いずれも宮崎さん自身の原作によるものである。そしてこれらの作品に共通するのは、“呪いが解けてめでたしめでたし”というよくある結末は、まったく登場しない点である。もっと詳しく眺めてみると、ポルコは自分でかけたのだから、呪いを解く気などまったくない。が、少女フィオが夜の海岸で、ポルコの顔が一瞬人間になる所を見てしまうシーンがある。また、アシタカは呪いを解くつもりで西の国に向ったのに、いつの間にか呪いなんかどうでもよくなって、人間同士の争いを防ぐ事に心血を注ぐこととなる。そして、腕の呪いは解けたのかどうか、はっきりしないまま物語は終わる。「千と千尋―」のラストでは、結局両親の呪いはいつの間にか解けている(二人は呪いにかかっていた事などまったく覚えていない)。また、銭婆によってネズミに変身させられた坊が、どうやら呪いはもう解けているのに(これもいつの間にか解けている)、元に戻るのを自発的に拒否してネズミのままでいるくだりがある。―呪いを進んでかけたポルコ(最後にフィオのキスで人間に戻ったようだが)、呪いをあえて甘受するアシタカ、呪いが解けても元に戻りたがらない坊―これらから見えて来る事は、宮崎作品においては、呪いとは、自分の意思が大きくかかわっているものであり、呪いを積極的に受け入れ、逃げずに正面から立ち向かえば、逆に自分の意思で呪いをコントロールする事すらできるようになる…という事である。“呪い”を“運命”と置き換えてみれば、これは人生に対する教訓も含んでいると言えるだろう。
さて、こうした流れをふまえた上で、本作「ハウルの動く城」を観ると、ソフィにかかった呪いの意味も分かって来ると思う。ソフィは18歳という若さなのに、妹のキャピキャピした性格や派手な服装に比べて、陰気で、服装も地味で、周囲が「ハウルがやって来る」と騒いでいるのにも関心を示さず、一人黙々と仕事に打ち込んでいる。恐らく恋をした事もないのだろう。そのソフィが、呪いによって90歳の老婆に変えられてしまうと、泣き喚くでもなく、その運命を淡々と受け入れ、世捨て人のように街を離れ山に入って行く。だが、やがて彼女は案山子のカブに導かれ、ハウルの動く城に入り込むと、そこから性格を一変させ、積極的に運命と立ち向かい、行動する女性に変わって行くのである。…それはちょうど、いつもムスッとフクれていた千尋が、環境の変化に最初は戸惑い、やがてハクの助言に導かれて、湯屋に入り込み、働くうちに、次第に積極的で行動的な性格へと変貌して行くプロセスとも共通する。はたまた、呪いをかけられ変身した坊が、こちらも甘えん坊の性格から、やがて自立し(実際に自分の足で立てるようになる)、呪いが解けても自分の意思でそれをコントロールするようになるまでに至る成長の過程とほとんどシンクロしているのである。
お分かりだろうか。宮崎作品における“呪い”とは、消極的で、甘ったれで、フテクサれて、人生に背を向けている人間に好んでかけられるものなのである。そして、積極性と自立心と、人生への前向きな希望を持つようになった時には、呪いは自然と解けているものなのである。ソフィが、ハウルの城で積極的な生き方を開始した時から、呪いはもう解けているのである。しかし坊と同じく、ソフィは元に戻ろうとはしない。何故なら、そんな風に前向きに取り組む自分を取り戻してくれたのは、他ならぬ荒地の魔女の呪いのおかげだからである。彼女は呪いに感謝しているのである。サリマンとの対抗に負けて介護老人となった荒地の魔女を、ソフィがやさしく世話をする理由も、それで納得できるだろう。
(2)ハウルの城は、何故解体したのか
宮崎作品の題名に「城」がつくのは、これが3度目。「カリオストロの城」、「天空の城ラピュタ」そして本作である。興味深いのは、いずれの城も、最後のクライマックスにおいて崩壊、解体してしまう点である。カリオストロの城(正確には時計塔)は、指輪をはめ込む事によって崩壊するし、ラピュタは滅びの呪文を唱える事で崩壊する。巨大で、複雑な構造を持ち、悪人どもが狙う宝が埋まっている魔の城―そんな物が争い事を招いているとするなら、解体させた方が人類の為なのである。今回の城は、ハウルの家であって、前2作のような宝を秘めているわけでも、争いの元凶というわけでもない。しかし外観は、砲台やら城壁のようなものをとりとめもなくくっ付けた奇怪なデザインであり、容易に他人を寄せ付けない要塞のようである。それは、火の悪魔、カルシファーとの契約によって心臓(=心)を渡してしまったハウルの頑なさの象徴でもあるかのようである(ついでながら、このエピソードは悪魔との契約によって魂を売り渡した「ファウスト」の物語を思い起こさせる)。そうした城が、ハウルとカルシファーの契約の解消(ソフィによってハウルの心臓をカルシファーから取り戻す)によって崩壊に至るのは、これも当然なのである。ただし、どの“城の崩壊”においても、「カリオストロの城」では清らかな水面が現れ、ラピュタは、わずかの緑の平地を残して静かに天に昇って行く。…崩壊の後に訪れるのは、水や緑によって浄化された天国を思わせる世界なのである。そう考えれば、奇怪な造形のハウルの城が解体した後に、心臓を取り戻したハウルと、愛に目覚めたソフィとの、心安らかな(魂が浄化されたような)世界が広がっているのも理解出来るだろう。醜い(前2作品は欲望、後者は外観)城は解体され、そこから新たな希望に満ちた世界が再構築されるのである(なお、エンディングでは再生されたハウルの城がプロペラで空を航行するシーンがある。小さな庭もあり、これは明らかに、前述の「ラピュタ」のエンディングを我々に想起させてくれる)。
(3)主人公たちの声を倍賞千恵子と木村拓哉にした理由
このお二人を声優に起用した点について批判的な声が多いが、私は何の問題もないし、正解だったと思う。倍賞千恵子の声は18歳の少女を演じるには無理があるなどと文句を言う人がいるが、それは今の倍賞さんの顔を思い浮かべてしまうからで、倍賞さんの声は若い頃とほとんど変わっていない。嘘だと思うなら、デビュー当時の出演映画(例えば'63年の「下町の太陽」など)を観るといい。むしろ、映画の中で何度も若くなったり年寄りになったりするのだから、これを複数の声優を使い分けたりしたら却って不自然である。また(1)で書いたように、18歳なのに地味で若さが感じられない…という難しいキャラクターを表現するには、若い声優では無理だろう。これらから考えるとソフィ役は、60歳を越えても澄んだ声を出せる倍賞さん位しか思いつかない。また木村拓哉は、私は若手の中でもすごくうまい人だと評価している。渡邉孝好監督の「君を忘れない」という作品での好演が印象的であったし、ウォン・カーウァイ監督の「2046」も良かった。本格的に映画俳優として一本立ちすれば主演賞を狙える力はあると思う。だいたいアメリカでもアニメには声優でなく、俳優を起用する例が多い。「シュレック」ではマイク・マイヤーズ、エディ・マーフィ、キャメロン・ディアス、アントニオ・バンデラスと有名俳優ばかり起用しているのである。
(4)荒地の魔女のキャラクターの謎
原作では、荒地の魔女は最後に滅ぶ悪役となっており、物語としては単純明快である。確かにソフィに呪いをかけた張本人だから、悪を倒してソフィが元の姿に戻る…という展開なら分かりやすくてあまり批判も出なかったに違いない。しかし宮崎監督はあえてその設定を根底から崩し、荒地の魔女は途中から魔力を失い、ソフィに介護される、悪役でも何でもない只の気の毒な老人になってしまう。ではなぜそんな改変を行ったのか。
実は宮崎作品は、初期の頃はまさに画に描いたような悪役が登場していた。「カリオストロの城」のカリオストロ、「ナウシカ」のトルメキア軍、「ラピュタ」のムスカ―等。TVの「未来少年コナン」でもインダストリアの局長レプカがいた。特にカリオストロ、ムスカ、レプカの3人は、実に憎憎しく、ヒロインをいたぶる悪の魅力を振り撒き、最後はいずれも無残に滅びて行った。これらの作品がいずれもファンの間で評価が高いのも、そうした勧善懲悪パターンが明快であるからである。
しかし、「ラピュタ」を最後に、宮崎作品からは、明確な形での悪人は一切登場しなくなる。「もののけ姫」ですら、エボシ御前は、村の人々の幸福を願うリーダーとして描かれ、ジコ坊もひょうきんなキャラクターで悪役のイメージはなく、最後は和解の形で終わり、誰も死なない。「千と千尋」でも湯婆婆やカオナシが悪役かと思われたが、最後はやさしい性格になる。「もののけ」、「千と千尋」そして「ハウル」の最近の3作においては、起承転結のストーリー性すら放棄しているように感じられる。ちゃんとした脚本を書かなくなったのも、「紅の豚」以降だと言われている。
何故そうなって行ったのか…については(5)で詳述するが、そうした姿勢は本作にも貫かれており、荒地の魔女を単純な悪役には、どうしてもしたくなかったようである。そう思えば、原作では男であったサリマンを、映画では女性にしたのもうなづける。しかも声を担当したのはやさしい母のイメージが強い加藤治子さんである。ここでも、描き方によっては悪役になり得るサリマンを、悪役にはしないというポリシーが慎重に組み立てられている。そこで思い出すのは、「千と千尋」におけるカオナシである。暴走していたカオナシが、千尋に手なづけられ、おとなしくなってしまうのだが、黒づくめで醜魂な容貌の、一見悪と思われたキャラクターが、ヒロインによって浄化され、やさしくなってしまう…という展開は、明らかに荒地の魔女のキャラクターの変貌に酷似している。荒地の魔女は、カオナシの“浄化される悪”の存在をさらに発展させたキャラクターではないだろうか。
(5)宮崎作品は、何故悪人を描かなくなったのか
多分宮崎さんは、“単純な勧善懲悪物語”を描く事に魅力を感じなくなったのではないだろうか。その理由は、私は宮崎さんがだんだんと年齢を重ねて来て、単純明快なドラマばかり作っているわけには行かない、もっと世界に向けて(特に若い人たちに対して)メッセージを発信して行こう…と考え始めた結果なのではないかと思う。「魔女の宅急便」では、少女の独り立ちと、落ち込んだり、悩んだりしながらも成長して行く姿を描いた。これ以降も、脚本・絵コンテのみで監督は近藤喜文に任せた「耳をすませば」でも、「千と千尋の神隠し」でも、少女がいろんな人と出会い、悩みながらも成長する―というパターンのドラマを描き続けている。これらはいずれも、若い世代に向けたメッセージであると言える。また「もののけ姫」では、“人は何故争わなければならないのか”、“誰もが、この世を良くしたいと思っている。なのに、何故争いが起きてしまうのか”という宮崎さんの時代に対する苦悩が如実に現れた、深いテーマを内包した作品となっている。単に悪を滅ぼして万々歳―という作品は作りたくない…という意思が、ここでは明快に打ち立てられているのである。
「ハウルの動く城」においても、こうした作品群を通して、宮崎さんが一貫して描いて来たテーマがやはり根底にあるのがお分かりいただけるだろう。18歳の、若さも気力も失っていた少女が、呪いという受難をバネとして、自分の力で生きて行く勇気を得、人を愛する喜びに目覚めて行く…という展開は、明らかに「魔女の-」以降の少女成長物語の流れにあるテーマだし、ハンサムだけど甘えと逃避を繰り返していたハウルが、“守るべき人を見つけ”、逃げずに戦うようになるという展開もまた、現在の若い人たちに向けたメッセージであろう。そして、サリマン言うところの“くだらない戦争”への怒りも、「コナン」から「ナウシカ」、「ラピュタ」から「もののけ」へと描いて来たテーマの延長上にあり、そう考えて見れば、(さまざまな飛行メカがふんだんに登場する点も含めて)本作はまさに、宮崎アニメの集大成である…と言えるのである。
さて、こうやっていろいろと解明を試みても、まだ謎は多い。“戦争はなぜ始まり、そしてなぜ唐突に終わるのか”、“ジャスティン王子はなぜカカシにさせられてしまったのか、なぜソフィのキスで人間に戻れたのか”等々…。
海外では好評だったし、評論家の評価も高い「千と千尋の神隠し」にも、いろんな分からない謎が存在する(例えば、湯バードはどこへ飛んで行くのか、トンネルの外観が冒頭と結末で異なっている理由は…等)。近年の宮崎作品は、1作ごとに謎の部分が増えて来ている気がする。それが一部の不評に繋がっているのだろう。
しかし、私はそれが宮崎さんの狙いだと思う。謎の部分を、みんなであれやこれやと考え、いろんな解釈をしてもらいたい―そうする事によって、作品に込められたメッセージを感じ取って欲しい―そういう事なのだと思う。戦争否定を感じ取るもよし、生きて行くとは、人を愛する事とはどういう事なのか、あるいは、家族とは、連帯意識とは…さまざまな思いを感じ取るもよし、いろいろと考え、さまざまに解釈し、一つだけでなく、何通りもの答えが得られるかも知れない。そうする事によって、この作品はさらに奥行きと広がりを獲得して行くに違いない。―私にとっては、近年の宮崎作品はとても刺激的で想像力を喚起してくれる、それこそ魔法の力を秘めた映画なのである。
人によっては、“アニメは子供たちが見るものなので、もっと分かりやすく作って欲しい”と不満を感じる場合もあるだろう。一面ではそれも正論である。しかし宮崎駿は、アニメ職人ではない。優れたクリエーターであり、世界に誇る天才作家なのである。―個人的には、手塚治虫、黒澤明と並ぶ不世出の天才だと思っているが、手塚も、黒澤も、全盛期までは分かりやすく、ダイナミックな痛快娯楽作品を多く作っていたが、晩年になると、天才ゆえの苦悩がにじみ出た、娯楽性がうすれ、芸術性の濃い作品を作るようになる(特に黒澤明)。だから単純娯楽作品を愛好していたファンからはそれらに対して不満が出ることとなる。この辺りも最近の宮崎作品に対するファンのリアクションと共通性が多い。
私だって、血湧き肉踊る、「ラピュタ」や「コナン」のような宮崎さんの冒険活劇を観たい…という思いはしきりである。しかし、偉大な作家は、同じ所に留まってはいない。常に、我々の先を歩んでいるのである。戦争や理不尽な世の中に対し、常に怒りのメッセージを発信し、人間が生きて行く事の喜び、哀しみを表現し続けているのである(手塚治虫も黒澤明も、戦争や核への痛烈な批判を込めた作品を多く発表している)。
…さて、いろいろとこの作品の良さを書いて来たが、残念ながら、宮崎さんの過去の作品から見れば、パワーダウンは否めない。特にエンディング部分。宮崎作品はいつもラストに向けて怒涛の如き、ワクワクするようなダイナミックな展開を見せていたのだが、今回はもう一つ盛り上がりがない。これで決めてやろう…というアイデアがどうしても沸き起こらず、消化不良のまま作ってしまった感がある。時間をかけてケーキを丹念につくっていたのに、制限時間が来てしまったので、慌てて最後の仕上げをしたような、そんなあわただしさが感じられるのである。脚本を書かずに製作に入る―という最近の手法が裏目に出てしまったようである。物語展開も、原作にやや縛られてしまっているように思えた(原作ものでも、これまでなら後半はほとんど宮崎さんのオリジナルであった)。
そんな不満もあるが、それでもこの映画は私なりに楽しめた。これだけのスケール感とテーマの広がりと、ビジュアルの美しさに魅せられるアニメーションはそうザラにはない。やはり今の時代を代表するアニメの1本には違いないのである。
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