いま、会いにゆきます  (東宝:土井 裕泰 監督)

 市川拓司原作のベストセラーの映画化。「セカチュー」ブームのおかげで、泣ける映画として大ヒットを記録しているそうだ。私は原作を読んでおらず、どんな作品なのかまったく予備知識を持たずに観たのだが、それで正解だった。後で原作も読んだが、映画を純粋に楽しみたいなら先に映画を観ることをお奨めする。ラストにあっと驚く仕掛けが施されているからである。
 物語は、病いの為に、最愛の妻、澪(竹内結子)をわずか28才で
失った夫、巧(中村獅童)、1人息子佑司(武井証)のつつましい生活シーンから始まる。澪は亡くなる前に手作りの絵本を残し、そこに、1年後の雨の季節に帰って来る…という遺言をしたためていた。そして本当に雨の日、死んだはずの澪が現れる。記憶をすべて無くして…。やがて3人の共同生活が始まり、巧は記憶を失った澪をもう一度最初から愛して行こうとし、澪もその愛に応えようと努力する。ようやく元の生活に戻りつつある日、雨の季節は終わり、悲しい別れの日がやって来る。
 私は、かわいい子供が悲しい運命に翻弄される映画に弱い。「禁じられた遊び」や「鉄道員」、「天使の詩」などの洋画を観てもボロボロ泣く。本作も子役の武井証がけなげで、しかも自分のせいで母が死んだと思い込んで、小さな胸を痛めているから余計で、涙腺は緩みっぱなし。そして、別れのシーンは情感を盛り上げる演出も的確で本当に切ない。ここは絶対泣ける。まあ私だけでなく、泣いてる人は本当に多いようだ。
 しかしこの映画、単なるお涙頂戴映画ではない。それだけだったらウェルメイドではあるが平凡な作品にしかならない。この映画の見事なところは、ラストで物語の前提条件を根底からひっくり返し、それでなおかつ新たな感動を生み出している所にある。これはやられた。その理由については、まだ観ていない人の為に、下に書いておく。映画を観た方のみ、ここ←をクリックしてください。
 中村獅童は、神経に障害を持つ父親という難役をうまくこなしており、好演。竹内結子も子役の武井証もみんなうまい。脚本(岡田惠和)も原作の手紙を、日記と絵本に変更するなど、映画的に巧妙にアレンジしていて出色の出来。ファンタスティックなムードをかもし出す廃墟のセットを手がけた種田陽平の美術も特筆しておきたい。SFファンタジーがお好きな人には、特におススメである。     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下はネタバレですので、未見の方は読まないでください。
 1年後に澪がフッと現れた時、多分誰もが彼女を幽霊だと思ってしまうだろう。
竹内結子と言えば、「黄泉がえり」や「天国の本屋・恋火」など、死んでからこの世に甦って来た―という役柄が多い。だから今回もてっきり…と思ってしまう(それもまた引っ掛けだとしたら、この作品のプロデューサーはなかなかシタタカである)。で、澪の残した日記によって、彼女は幽霊でなく、20才の時に事故に逢い、8年後にタイムスリップした姿なのだという事が最後に分かる。つまり、“幽霊ファンタジー”だと思っていたのが、実は“SFファンタジー”だったという事になる。これには驚いた。しかしこれによって、何故彼女が雨の季節に戻る事を予言していたのか…という謎が解き明かされるし、8年前、澪が急に巧の求愛を受け入れた理由も明らかになる。そして、それまでは巧の側から描かれていた(即ち巧が一方的に澪に恋していた…と思われた)物語が、真実が明らかになる事によって、澪が実は巧にずっと好意を抱いていた事も判明する。タイトルの「いま、会いにゆきます」の意味も、ここでようやく明らかになるのである。
 この物語が素敵なのは、家族の愛、夫婦の絆を丁寧に描き、別れのシーンで一度悲しい涙を流した観客に対して、ラストでSF的、謎解きミステリー的などんでん返しを提示し、それによって観客に、澪という女性の、時空を超えるほどのひたむきな愛の強さを改めて認識させ、別の新たな感動を呼び起こしている点である。一歩間違えれば失敗しかねない、ギリギリのところでこの映画は見事な着地を見せている。私はこれを観て、リチャード・マシスン原作、ジャノー・シュワーク監督の佳作「ある日どこかで」(クリストファー・リーヴ主演)を思い出した。本作とテーマ的にもよく似かよっている。あの映画が好きな方は、きっとこの映画も好きになるだろう。