華氏911   (米:マイケル・ムーア 監督)

 「ボウリング・フォー・コロンバイン」という傑作ドキュメンタリーを作ったマイケル・ムーアが、今度はブッシュ大統領を徹底非難するドキュメンタリー映画を作った。既にご存知の通り、この作品はカンヌ映画祭で最高賞のパルムドールを受賞し、アメリカ国内でも興行的に大ヒットしている。しかし一部では、政治的に偏っているとか、プロパガンダ映画であるとの批判も出ている。―しかし、そういった点を挙げて、この作品を頭から否定するのは(あるいは、偏向しているから見ない…とか言うのは)、私は間違っていると思う。以下その点について述べる。
 まず、言いたいのは“ジャーナリズムとは、本来反権力であるべきである”というのが私の持論である。権力者が、権力をカサに着て暴走しないよう、常にチェックするのがジャーナリズムだと思う。逆に言えば、ジャーナリズムが権力に迎合するなら、その使命は死んだも同然だと思う。常に、時にはゲリラ的な方法を使ってでも、権力の横暴、腐敗に立ち向かって欲しいと願っている。例えば、「田中角栄研究」やロッキード疑惑等、権力者、元権力者の政治的腐敗を追及した立花隆氏、ウォーターゲート事件をスクープしたボブ・ウッドワード記者などの行動がその顕著な例である(後者は「大統領の陰謀」として映画化もされた)。こうした人たちがいるからこそ、大衆は権力者の闇の部分を初めて知りうるのである。無論、ジャーナリズム側も行き過ぎないよう、自戒が必要ではあるのだが…。
 次に、映画作りも、作者の思想の表明である以上、自分が正しいと信じた事をとことん主張するのも正しいと私は思う。例えば、チャップリンは1940年、まだアメリカが第2次大戦に参戦していない時に、ヨーロッパを蹂躙していたナチス・ドイツのヒットラーを徹底的に批判した映画「独裁者」を作った。当時の勢いなら、ヒットラーが天下を取るかも知れないという時期にである。これは勇気のいる事である。あるいは、わが今井正監督は、まだ裁判が係争中だった八海事件の被疑者たちが無罪であるとの確信の元に、映画「真昼の暗黒」を作った。「もし被告たちが有罪だったなら、映画監督をやめる」とまで言い切り、権力側である警察、検察、裁判所を徹底的に揶揄し、警察の拷問や自白強要の横暴ぶりも鋭く批判した。これも勇気のいる事であり、なかなか出来ない事である。結果的に、この映画の影響もあって、被告たちは後に冤罪が認められ、無罪となった。ちなみに「独裁者」も「真昼の暗黒」も、評論家から高く評価され、どちらもキネマ旬報ベストテンの1位に輝いた。
 こうした、ジャーナリズムの勇気、映画作家たちの勇気は、いずれも今では歴史的に見ても高く評価され、批判する人は少ない。そうした事実をふまえて見れば、ジャーナリストであり、かつ映画作家でもあるマイケル・ムーアが、最高権力者である大統領のやり方に対して厳しく批判する映画を作るという行動は、なんら間違ってはいないと私は思う。思えば、ベトナム戦争当時、ジョンソン大統領に対して鋭い批判を浴びせたり、反戦的な作品を作った映画人は数多くいたはずである。ムーアの行動が突出して目立っているように見えるのは、そうした反権力的ジャーナリスト、映画人が少なくなっている現状の裏返しとも読み取れるのである。
 さて、そういうスタンスを踏まえて作品を観てみると…。確かに面白い。素材そのものは、テレビなどで目にしたものや、一部で噂されたビン・ラディン一族と米政府との癒着など、既に知られた物もあるが、これらを巧みに編集する事によって、ブッシュ大統領を徹底的に批判する姿勢は小気味良い。9.11の事件を知らされても小学校でボサーッと座っているブッシュの姿…なんて映像は、よく探したものである。辛辣さとユーモアとが絶妙にブレンドされた構成は、見事にドキュメンタリーを超えて“映画”となっている。後半で、息子が戦死した事を嘆く母親の姿は胸を打つ。…ただ欲を言えば、前作「ボウリング−」で見せた著名人への突撃インタビューが、本作ではやや小じんまりとして物足りない。上院議員たちに「息子を戦場に送る気はないか」と問いかける部分はややおとなしい。ブッシュは無理としても、ラムズフェルド国防長官か報道補佐官クラスへの突撃インタビューが見たかった気がする。
 全体を通して見れば、もっと過激だと思っていたのが、意外とオーソドックスな仕上がりで、これはこれで完成度は高いのだが(それだからこそカンヌで賞賛されたのだろうが)、個人的にはもっと過激な作りを期待していただけに、やや残念ではあった。変な例えかも知れないが、「ゆきゆきて、神軍」(原一男監督)という傑作ドキュメンタリーを既に持つ我々から見れば、ムーアには、あの奥崎謙三と原一男を足したような破天荒なキャラクターをどうしても期待してしまうのである。無いものねだりではあろうが…。ただしそうなればなったで、全国公開―大ヒットで多くの人の目に触れる事は到底望めなかったかも知れない。よくも悪くも、それがこの映画の限界であろう。