イノセンス   (プロダクションI.G.:押井 守 監督)

 「マトリックス」にも多大な影響を与えた押井守監督「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」(95)の、実に9年ぶりの続編である(と同時に、押井守のアニメ作品としても9年ぶりの登場という事になる)。前作は細々と公開され、当時はほとんど話題にならなかったが、「マトリックス」ブームと、ウォシャウスキー兄弟やQ・タランティーノ、ジェームズ・キャメロンといったジャパニメーション・ファンである有名監督たちからも熱いラブコールを受けてその評価が高まり、今回は全国ロードショー展開という事になった。手前味噌になるが、前作公開直後からその魅力についていろいろと書いてきた私としてはちょっといい気分である(「攻殻機動隊」と押井守論については別項の拙文を参照のこと)。
 さて、本作であるが、前作が士郎正宗の原作を若干再構成しているものの、ほぼ原作に忠実に描いていた(脚色は伊藤和典)のに対して、本作は、登場人物のキャラクターはそのままだが、ストーリーは全くのオリジナルである(脚本も押井守本人)。その分、押井守のスタイルと個性が強く滲み出た、まさに押井守監督の集大成と言ってもいい作品になっている。私のように押井作品を昔から観て来たファンにとってはこたえられない楽しい作品になっていたが、逆に初めて押井作品を観る観客にとってはまったくワケの分からない難解で退屈な作品に感じられるだろう(そういう意味で、広範囲に売るためとは言え、続編である事をPRしていない売り方にはちょっと問題あり)。
 お話そのものは、意外とシンプルである。少女型のロボット(ガイノイドと呼ばれる)が所有者の人間を惨殺し、自爆するという事件が頻発し、公安9課のサイボーグ捜査官、バトーと人間のトグサがコンビで捜査に当たることとなる。その過程で、ガイノイドを製造したロクス・ソロス社の背後に、ある陰謀が隠されている事が判明して来る・・・という内容で、いわゆるハードボイルド探偵物のパターンである。難解と思われるのは、さまざまな文学や俳句、漢詩などから引用した言葉が登場人物の口から語られるからであるが、最初に観る時には、これらはあまり深く意識せずに進む方がいいだろう。考えてたらストーリーを把握できなくなるからである。
 それよりも、驚嘆すべきはビジュアルの美しさで、前作よりもCG技術が進歩した事もあるが、限りなく実写に近い―それでいて、不思議の国のアリスのように、ラビリンスに迷い込んだかのような幻想的かつシュールレアリスティックな―イメージに圧倒される。冒頭の「ブレード・ランナー」を思わせる未来都市の風景、後半、択捉(エトロフ)特区にに舞台を移してからのイマジネーションの広がり等は、前監督作の実写作品「アヴァロン」を経た事もプラスになっているのではないか。あの作品は実写でありながら、逆に限りなくアニメとの境界線に近づいた作品でもあった。
 無類の映画好きである押井守らしく、あちこちにいろんな映画からの引用が散りばめられているので、これらを楽しむ…という手もある。出だしの展開は猟奇連続殺人ものの「セブン」だし、コワモテの刑事とやさ男風のコンビが連続殺人事件を追うあたりは「ダーティ・ハリー」だろう(トグサの、「あんたとコンビを組んでいたら命がいくつあっても足りない」というセリフは「ダーティ・ハリー」の相棒刑事が言うセリフと同じである)。バトーが家に帰れば、愛犬だけが話し相手の孤独な生活を送っているあたりの描写は、チャンドラーのハードボイルド小説か、メルヴィルの「サムライ」を彷彿とさせる。ヤクザの組に乗り込むシーンでの、バトーの乱暴さとマッチョぶりはまるで「ターミネーター」である(心なしか体形もシュワちゃんとそっくり(笑))。笑えるのが、ヤクザの代貸の顔が成田三樹夫そっくり。小難しいように見えて、実は結構遊んでいると見た。
 まあそんなわけで、これはある程度、観客を選ぶ映画には違いないと思う。しかし前作を見ていなくても、ストーリーについて行けなくても、CGを多用したビジュアルの美しさには誰もが眼を瞠るだろう(特に択捉での祭礼シーンの素晴らしさ)。だから、この映画の楽しみ方としては、まずストーリーを追うより、“絵”の美しさを堪能すればよい。これだけでも料金分の値打ちはある。そして、帰ってから興味が湧けばパンフレットや、いっぱい出ているムック本、さらには前作をビデオレンタルして鑑賞し、予備知識を得て2度、3度と劇場に通えばよい。そうする事によって、この映画が如何に魅力的で奥行きの深い作品であるかが次第に分かって来ると思う。そういう意味では、この映画はキューブリックの「2001年宇宙の旅」と似たような鑑賞方法が出来る作品と言えるかも知れない(あの映画もまずビジュアルに圧倒され、難解だけれど観る度に魅力を増して来る作品であった)。
 少しだけ、この作品のポイントを述べると、これは機械の体を持ちながらも、心は人間でありたいと望む孤独な男・バトーの、魂のさすらいをハードボイルド的に描いた作品である。彼の心の隅には、前作で魂(ゴースト)のみとなってネットの世界に消えた草薙素子(少佐と呼ばれる)への思いがあり、表向きは強がっていても、心は寂しい男なのである。敵地での戦闘シーンで、バトーを助けに人形の体を借りて登場する素子は、まるで守護天使のようである。ここで、バトーが素子の体にそっとベストをかけるシーンがいい。無言のラブシーンと言っていいだろう。ラストで、家族の元に帰って行くトグサ(人間の体を持つ)を寂しく見つめるバトーの表情がせつなく悲しい。
人間に戻れない、しかし人形でもない男の哀しみは、名作「ブレード・ランナー」(の、レプリカントの哀しみ)にも通じるものがある。押井守は映像の類似点も含め、明らかにあの作品を意識していると見た。
 本年の日本映画を代表する(恐らく海外でも絶賛を博するだろう)、これは秀作であり、問題作である。