A.I. (ドリームワークス:スティーブン・スピルバーグ 監督)
故・スタンリー・キューブリックとスピルバーグとのコラボレーションとして完成が待たれていた話題作。未来世界、「母親を愛するようにプログラムされた」ロボット、ディビッドが、その母に捨てられた為に、母の愛を求めてさすらう・・・というのがストーリー。簡単に言えばキューブリック的なコンセプトを、スピルバーグ風にうまくまとめた・・・という事になる。いろいろと考えさせられるテーマを盛り込んでいる点で、見て損はないと思う。私は楽しめました。
(ここから後は映画のネタバレがあります。多分既に見ている人が多いと思うのでそのまま述べますが、未見の方は映画を見てから本稿を読むようにしてください)
大きなテーマは、「ロボットは人を愛せるのか?」という点だろうが、もう一つ意地悪いテーマとしては、「人間はロボットを愛せるのか?」、さらにはその先に「ロボットと人間とは共存できるのか?」という点も見逃せない。そのテーマは、キューブリックの…と言うよりSF映画史上の最高傑作「2001年宇宙の旅」において、スーパーコンピュータ、HALが、自分を停止させようと(つまり、捨てようと)考えた人間たちの先を読んで、人間たちを抹殺しようとする重要なシークェンスとも重なる。人間にとってはコンピュータ(つまりA.I.)なんて気に入らなければいつでもスクラップに出来るのである(中盤のジャンク・ショーはそうした人間のエゴを象徴している)。ロボットがいくら人間を愛しようと試みても、人間の方は自分の都合で簡単に愛を放棄できる。その点で両者は対等ではあり得ないのである。それに、ロボットの方はプログラムであるだけに、どこかでプログラムを停止しない限り、永久に愛を求め続ける。それは、人間の方が歳を取り、老いて死んでしまってもなお続くこととなる。だから、ロボットに“愛”という感情を持たせる事は基本的に“間違い”なのである。キューブリックが描こうとしたのは、まさにそうしたシニカルな問題提起であろう。そういう意味で、デビッドはHALの生まれ変わりでもあるのである。
さて、こうした基本ラインを踏まえたうえでスピルバーグが映画化した本作(脚本はスピルバーグ自身)は、このデビッドに、やすらぎ=すなわちこのロボットに人間らしい(?)最後を与えてあげようという思いやりを示してドラマを締めくくろうとした。「母親に心底から愛されればデビッドのさすらいの旅は終わる」というエンディングなのである(スピルバーグの好きな「ピノキオ」の、木の人形が人間に生まれ変わるというハッピー・エンディングの応用であろう)。スピルバーグらしい終わらせ方であるが、これが果たしてキューブリックが求めたエンディングかと言うと、多分違うだろう(そもそもキューブリック映画のラストに、ハッピーエンドはほとんど=多分1本も=ないのである)。そういう意味で、これはまさしく“スピルバーグの映画”なのである。
なお、ラストの不思議な未来人らしきものについて、あれはA.I.の進化した姿だとか宇宙人だとかいろんな意見があるが、私はこの映画はSFでなく、ファンタジーだと思っているから、あれは別に何でもいいのである。極端に言えば“神”でもいい(キューブリックは「2001年」のモノリスを多分そんな存在に意味づけていたと思われる)。もしSFならつじつまの合わない点が多過ぎる。例えばワカメを食べただけでも故障するデビッドが、後半海に身投げした後何ともないのはおかしいし、また2000年も水中にいたら、いくら氷河期を通過したからといっても、動力は消耗するしゴムは腐蝕し、金属は錆びてとても動くはずはないからである。それにしてはあの未来人の造形はもう少しなんとかならなかったのだろうか。そこだけがマイナスであった。 ()
(付記)2度目に見に行った時に気が付いた事が2つある。
まず1つは、ルージュ・シティでデビッドに行き先を教えるドクター・ノウの声。どうも聞いた事があるなと思っていたのだが、エンド・クレジットを見たら、ロビン・ウィリアムスが声をあてていた。考えればロビン、「アンドリューNDR115」でもやはり“人間になりたかったロボット”を演じていましたね。
2つ目は、ラストでデビッドがママ・モニカのクローンに抱かれる最高に幸せそうなシーン。なんとデビッドはここで“涙”をポロッと一筋流していたのである。ロボットなのに涙を流すのはおかしいのだが、これも前述のように、この物語をファンタジーと考えればつじつまが合う。つまりここでデビッドはピノキオのように、“人間”になった…ということなのだろう。ちょっとあざとい仕掛けかも知れないが…。
ここから先は蛇足です。
映画を見た人の中に、これは手塚治虫の「鉄腕アトム」のパクリだ、なんて声があったが、それは違うと思う。未来世界の人間そっくりのロボット少年を主人公にしたら、みんなアトムに似てしまうだろう。それだけ手塚作品は先駆的な存在であったのである。スピルバーグ自身もインタビューで、「アトム」は見たことがなかったと言ってるし…。
ただ、キューブリックに関しては接点がある。昭和39年に、キューブリックが、その頃アメリカで放映されていた「鉄腕アトム」を見て感心し、手塚に「2001年−」の美術監督を依頼して来たのである。残念ながらその頃手塚は漫画原稿書きの上に「アトム」のアニメ製作に追われて猛烈に忙しく、その依頼を断ったのである。後で手塚は「2001年」を見て、引き受けりゃ良かったと悔やんだそうだ。
それだけでなく、これは私の感想だが、「2001年」には手塚のライフワーク「火の鳥」との共通点も多いのである。最初が遥か先史時代から始まり(黎明編)、次にいきなり未来に飛ぶ(未来編)。そしてどの時代にも人間たちを見守る超越した存在、火の鳥が登場する。この火の鳥をモノリスに置き換えたら、そのまま「2001年」にならないだろうか。そのうえ、石上三登志氏の指摘によれば、「火の鳥」にはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」のテーマである“永劫回帰”=死んでも又赤ん坊に生まれ変わる、いわゆる輪廻転生=がモチーフとして使われている…のだそうだが、「2001年」のラストもまさにそのテーマが使用されている(ボウマンは死んで赤ん坊に転生する!)。さらには映画の冒頭とラストに使われている音楽がまさにリヒャルト・シュトラウス作曲の「ツァラトゥストラはかく語りき」である!
どちらかがそれらを参考にした可能性はない。「火の鳥・未来編」が描かれたのは昭和42〜43年、「2001年」が日本公開されたのはその昭和43年。これはまったくの偶然である。日米を代表する天才作家が同じ頃に同じテーマを描き、それぞれが歴史に残るマスターピースとなった…。不思議な因縁を感じざるを得ない。それともこれも超越した存在の導き?まさかね(笑)